一緒にするということ

 私は一人で小さなラーメン屋に入ることも映画を見ることも全然苦痛ではないけれど、「一緒に同じ体験をする」というのはやはりそれだけで価値があるから、人と一緒にどこかへ行くことは必要なことであるのだと思う。記憶に残るから。人生に残るから。

 たとえば、とても好きだった人とその人の部屋で肩を並べてその人の好きな映画を観ていたら途中で強く手を握られて、その後終盤までずっと力を込めたり緩めたりされ続けていたせいで、その映画のことを思い出そうとするとその手の感触が前面に来るので「ローマです」の時のオードリーのまなざしがすばらしかったということくらいしか言えないとか、そういうこと。その映画を見かけたら、「その人と観た」ということが一緒に出てくる、そういう価値。当然向こうも、自分のしたことはある程度覚えているだろうから、あの映画は彼女にとって「私と観た映画」になる。それが唯一の存在ではなくとも。

 それは私にとって、かなり大きな価値となる。私の人生の中に彼女の影が残るのと同じように、同じだけの比率ではなくとも、彼女の人生の中にも私の存在は残っているということ。

 たくさん遊んでいてよかった、と思ったのだ。なにも二人きりでなくったって、いろんな場所に行ってそれなりに食事も重ねた、映画だっていくつか観たし、本の貸し借りもした、そういう記憶が残る。彼女の人生に。それがどう作用するのかはわからないけれど、私は覚えていてほしいから、よかった。

 あの白く柔らかい手、オレンジの爪、かたちの綺麗な、私がどれだけ愛していたか、彼女が知ることは一生無いのだとしても。

自意識過剰

 私は、いつだって、誰からだって、絶対に軽んじられたくなくて、この性格で得をしたことなんて一度たりともないし、ずっとずっと改善したいと思ってきているのだけれどさっぱり直らなくて、まだそれに見合うだけの人間になろうとしていた頃の方が、幾分かましだったように思う。